ここ数日(または、十数日)の間、セクシュアルマイノリティに関することが新聞に載ったり、テレビ番組で取り扱われたりした。
そこで自分が感じたことを書いておこうと思う。
まずは、同性婚について。
同性婚っていうと、同性同士の結婚。つまり、男性と男性、女性と女性が結婚すること。
自分の知り合いには同性婚をしたいと思っている人がいる。
だから、したいと思っている人ができるようになればいいと思っている。
しかし、セクシュアルマイノリティの中で同性婚がパートナーと関係を築く方法として一番みたいな風潮になったりしないかなって気になる。
結婚する、パートナーはいても結婚しない、ずっと1人でいる、複数の人と関係を築くなど、どれを選択してもいい。
どの選択をした人もみなその選択をして良かったと思える社会になればいいと思う。
次に、セクシュアルマイノリティのことがメディアで取り扱われることについて。
セクシュアルマイノリティのことが新聞の記事になったり、テレビの情報番組で取り扱われる際に、その記事に載ったり、映像に映ったりする性自認の人や性的指向の人だけのことみたいに受けてが感じるように記事に書かれたり、映像が編集されたりする。
例えば、同性婚のことが新聞記事になって、記事を載せた新聞の一つにでかでかと「レズビアン挙式」と書かれてしまうこと。
そのように書かれると、その記事になることをやった人が性自認や性的指向関係なくセクシュアルマイノリティで挙式をしたい人たちができるようにするために動いたのに、記事を読んだ人にはレズビアンの人たちだけが挙式できるようになったみたいに受け取れる。
これじゃ、記事になったことでそのことを知ったセクシュアルマイノリティの人の中に、挙式しようと思えばできるのに「レズビアンじゃないからそこで結婚式はできない」と思う人ができてきてしまうと思う。
記事を書いたり、映像を編集する人にはセクシュアルマイノリティの「特定の性自認や性的指向」を対象にしているかどうか、「セクシュアルマイノリティ全ての人」を対象にしているのかよく考えてからにしてほしい。
書きながら、セクシュアルマイノリティに関する活動をする時には「仲間外れ」や「疎外感」を感じる人が出ないようにするためにはどうすればいいか常に考えながら活動しようと思った。
あやぱんさんコメント、ありがとうございます。当事者も非当事者にも伝わるようにすることは難しいですよね。ポリガミーやモノガミーという言葉を使って報道されたら、この方の報道のされ方が大袈裟にならなくて済みましたね。
こんにちは、あやぱんです。ほんと、そうですね…。ことばって難しいな…って常日頃思います。確かに「レズビアン挙式」とでかく見出しがあっても、該当しない非当事者にとっては、「?」とか、「私には関係ないなぁ」とあっけなく、流されてしまう可能性もあると思います。されど「レズビアン挙式”も”」と、”も”をつけると、今度はレズビアンの人たちなど当事者から見ると、何か疎外されてる感が否めない文章になり、ときに「(発信者側などが)してやってるよ」といった聞こえ方にさえなってしまわないか?と感じることもあります。公私ともに、さまざまな社会的マイノリティと向き合い支援していく中で、「誰にとっても平等に向き合う」ことの難しさに日々直面します。悩んだり、試行錯誤した先にきっといい応えが出てくるはずだ!と思い、悩み込むことも悪くないかな〜と思い過ごしています。また、ポリガミーの人権がまだまだ日本は貧弱だなぁ…と感じます。先日報道された、塩屋瞬さんの二股騒動も実は彼がポリガミーだったとすれば、我々にとっては簡単に片付いてしまう話しだなぁ…と感じます。それに、そうしたことを大々的にメディアが報道することで、当然ながらモノガミーの人たちは話題にして盛り上がると思います。なんだかなぁ…って思います。大学時代、ポリガミーの先輩がいたので私にとっては身近なことなんですよね^^