自分の何が「違和」なのか

自分のことは、男でも女でもないと思っている。つまり、無性別。男でも女でもないというのは、性自認(性の自己認識)と身体的性別(男の体という認識がかなり低い)で感じる。

最近、レインボー・アクションの「かもカフェ」や「ゆるカフェ」に参加するようになった。
この会には、いろんな性自認、身体的性別、性的指向、社会的性別の人々が集まる。
その人々でお固い話から緩い話までいろんなことを話す。
その中で自分は自分の「違和」が何なのか少しずつだが分かってきた。

自分の人生を振り返ると、子供のころから無性別だったと思えるし、身体的性別に対しては違和まではいかなくても、何か違うとは感じていた(何か書いてしてまうと、立ち小便ができることに何か違うと感じていた。)
大学生の時には自分は、男でも女でもないことに気付き、男性であることを主張してなくても服装や書類に書かざるを得ない性別で勝手に「男」にされてしまうことへの「違和感」を持つようになった。

それで、何が「違和」なのか。
自分の「違和」は、性自認と身体的性別の不一致が原因で起こる「性別違和」ではなく、自分が認識している日常生活を行う上での自分(性別概念がないから「自分」と書いた)と社会の中で当てはめられてしまう性別の不一致が原因で起こる「社会的性別違和」であるということ。

性同一性障害のの人が感じる性自認と身体的性別の不一致による性別が自分にもあるかといったらない。性自認は子供のころから変わってないし、身体的性別が男である認識が低いから、性自認が男で身体的性別が女、性自認が女で身体的性別が男みたいな性別違和では自分の違和は説明できない。

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