連載|第33回「新聞社の記事では、セクシュアリティについて悩んだことがない当事者は正しい姿の当事者とは認めない」

 遅くなりましたが、2015年もXが集まれる場所をよろしくお願い致します。2014年10月から休止していた当ブログでの連載を再開します。これからの連載の公開は不定期にさせていただきます。連載の公開が止まらないように月に1回は公開できるようにしたいと思います。今後もXが集まれる場所ブログをご覧ください。
 筆者は、連載を休止していた間も何かしようと思い、日本でXジェンダーに当てはまる性自認に関する情報を探すために集めたインターネット上で読める新聞社の日本のセクシュアルマイノリティ・性的少数者・性的マイノリティ・LGBTの記事の情報をブログで公開することを始めました。最初は、Twitterで記事の情報を公開していたのですが、記事の情報を検索して探しやすくるためにブログでの記事の情報の公開に移行しました。
 インターネット上で読める記事を読んでいると毎回あることを思うことに気が付きました。それが何かというと、「記事で紹介される当事者は”悩んだ人”ばかり」といことでした。ほんと、悩んだ当事者しか紹介されていません。記者が「悩んだことがある当事者について書くことが正解で、悩まなかった当事者について書くことは不正解」と言わんばかりに悩んだ当事者についてしか書かれていません。
 筆者が同性愛といキーワードでインターネット検索を始めた14歳の時も、自分は男でないと気が付いた21歳の時もセクシュアリティについて悩んでいません。だから、記事を読むと「当事者として悩んでないから正しい姿の当事者である悩んだことがある当事者のふりをした方が得なのではないか」と思ってしまいました。しかし、そんなことを思っても筆者は、悩んだふりをすることはできません。セクシュアリティについて悩むということがどんなことなのか分からないからです。うまく悩んだふりができたらできたで、「何で悩んだふりをしているんだろう、悩まないでいきてきた自分を否定する自分になった」と思い、悩んでないのに悩んだふりをした自分に悩まされそうです。
 セクシュアリティについて悩んだことがある当事者も悩んだこともない当事者も当事者であることに変わりはありません。悩むことが「当事者としての正しい姿」ということは決してありません。悩んだことがある当事者のことばかり記事に書くことだけが記事を書く側の記者の正しい姿でもありません。セクシュアリティのことは悩むことでも悩まないことでもあります。筆者は、それを悩んだことがあるということが正しいと言わんばかりに記事に書くことは、悩んだことがない当事者を否定しかねない行為だと思います。
 セクシュアリティについて悩んだことがある当事者について記事に書いてくれることで当事者ではない人に当事者の現状を伝えてくれるので、当事者のことが記事になることは大事なことです。しかし、悩んだことがある当事者の記事ばかりでは「異性愛ではない人や性自認に関して違和を抱える当事者は全員セクシュアリティについて悩んだことがある」という誤解を生むことになります。だから、当事者の中にも「悩んだことがことがない当事者もいる」ということを記事にしてほしいです。